メキシコの新聞スタンドならどこでも手に入る、日本の神話と伝説に関する書籍の第一巻がすでに発売されています。 スペインのRBA社がコレクターズブックの出版を担当しています。 日本の神話と伝説に関するこのコレクションは60巻からなり、隔週で発売されています。 第1巻は4月15日、第2巻は4月29日、第3巻は5月13日に発売されました。いずれも全国の新聞スタンドで購入できます。
メキシコの選挙:知っておくべきこと
レオン市内の交通違反監視システム:反則金を納付する方法
「監視カメラによる交通違反検知」で反則金を科された場合、期限内に支払いを済ませ、トラブルを回避するためのアドバイス。 昨年12月から、市内各地で交通違反を取り締まる「監視カメラによる罰金制度」が運用されています。交通事故を減らし、市の道路文化を向上させるため、レオン市内の要所にカメラが設置され、直接接続されているC4(州のコンピューター監視システム)によって、ドライバーの速度や違反時のナンバープレートのデータなどが検知されます。 12月中は試用期間でしたが、2024年1月1日からは、実質的な反則金を伴う交通違反へと移行しました。しかし、警告を受けた場合にどのように対処すればよいのかわからないドライバーも少なくありません。 交通違反の罰則を科されたら? 納付方法 市町村役場の窓口では、反則金を直接支払うことができます。 事務所の住所は下記を参考: https://pagos.leon.gob.mx/pagonet2/LugaresDePago.aspx オンラインで納付する場合: https://pagos.leon.gob.mx/pagonet2/Services/transito/Transito_Form.aspx 反則金を期限内に納付しなかった場合はどうなる? 罰金を支払わなかった場合、その違反はナンバープレートの名義人の運転経歴に記載され、罰金を納付するまでは交通課やその他の政府機関で車両に関する手続きを行うことができなくなります。 交通違反の反則金額は? システムの性質上、今のところスピード違反が主な罰則対象となっています。レオン市の交通規則によると、現在許可されている最高速度は主要道路で時速70キロ、生活道路では時速50キロ、学校、病院、教会、市場、スポーツ・レクリエーションセンターの近くなど、人が集中する地域は時速20キロとなっています。 レオン市におけるスピード違反の反則金は1000ペソから2400ペソです。 ただし、監視カメラによる検知では、ナンバープレートを覆ったり、カメラが感知できないよう何らかの装置を使用した場合にも罰則が科せられることがあります。 その場合の罰金は300ペソ以上です。
日本で一番有名なタコス屋、大和さん
タコスが恋しくなった大和さんは、本場メキシコの味を再現したタコススタンドを立ち上げ、日本全国に広めるためにトラックを走らせることを決意する。 古谷大和さんは、富士山の麓の美しい風景の中で、スアデロ、トリパ、カルニータスなどのタコスを販売しています。大和さんのタコス・トラックはソーシャルメディアで拡散されました。 午前10時、メキシコの国旗に塗られたフードトラックの1日が始まります。SNS上では「エル・ブキ・ハポネス」の名で知られる大和さんは、インターネット上で、そして何よりも彼の顧客を虜にしている、一風変わった日本人タコス屋なのです。 数年前から大和さんは、「トレス・エルマノス(三兄弟)」という本場メキシコのタコス屋を経営しています。SNSでは、以前メキシコのエカテペックに数年間住んでいたことを明かしています。 帰国後、メキシコで食べ慣れたタコスを探しましたが、日本には見つかりませんでした。「私が求めるタコスはここにはありませんでした」と、知られざる日本という番組のインタビューに答えています。 そこで大和さんは、メキシコ人らしい起業家精神で、メキシコから直輸入した食材を使い、自らの手でタコス屋を立ち上げることにしました。 値段は1500円からで、観光客、外国人、日本人、誰もがカルニータス、スアデロ、チキン、トリパなど本場のタコスの味を楽しむことができます。 大和さんのタコスは、メキシコのタコス屋で使用されるものとまったく同じ円形のコマル、そして本物のコーントルティージャで調理されるため、最初から最後まで本格的です。 「トレス・エルマノス」は2018年から富士山の麓でこの伝統的なメキシコ料理を提供しています。
日本ルーツとの再会
日本生まれで東京出身のワタナベ·シュウスケ氏は、メキシコでの新しい生活を求めて3カ月の船旅に出ました。ワタナベ氏は航海中にスペイン語を学び、下船後は仕立て屋として働き始めました。メキシコシティに到着したワタナベ氏は、そこでオトミ族出身のメキシコ人女性、ミカエラ·ガルシアさんに出会います。彼女との間に3人の娘が生まれ、長女はエルサと名付けられました。エルサさんがわずか6歳のとき、ワタナベ氏は若くしてこの世を去りました。 「これが私の生い立ちです。エルサは私の母で、シュウスケ·ワタナベは私の祖父です」と語るホルヘ·ラモス·ワタナベさんは、切れ長の目をした時間厳守をモットーとする一流エンジニアです。 メキシコ人であるホルヘさんは、グアナファトに住むようになって自分の日系人としての原点を再認識したと言います。 「自動車関連の工場ができたことで、日本をより身近に感じるようになりました。ここで、自分の祖先についてもっと知りたいと思うようになり、日本語を習い始めました」 エンジニアであるホルヘさんは、学問と職業の両方の観点から祖父の祖国を知り、日本文化を学びたいと考えています。 現在、ホルヘさんはグアナファトに住む日系人コミュニティの組織化に取り組むチームの一員として活動しています。 「私は日本人のたくましさにとても共感しています。日本人には逆境に立ち向かい、前進する力があります。困難な状況の中を生き抜いて、あきらめずに戦ってきました」
「日本とメキシコの絆を深めたい」:福嶌大使
両国の関係強化を目指すイベントの推進は、在メキシコ日本国大使の目的の一つである。 「メキシコにもっと日本を」両国の絆を深め、二国間関係を強化し、双方の文化を結びつけ、各団体を連携させていくことが、メキシコ国籍を持つ日本の外交官、福嶌大使の明確な目標です。 「私はメキシコで生まれた日本人ですので、メキシコと日本の距離をさらに縮めたいと考えています。両国の関係が深いのはとても良いことです」と、日墨ネットワーキングイベント2022の開催中に福嶌大使は完璧なスペイン語でココ・メキシコのインタビューに応じてくれました。 「ネットワーキングイベントは、二国間で活動する全ての組織や団体の連携を強化するために非常に有効です。連携を活性化するためには、人と人が直接会って話すことがとても大切です」
メキシコで日系コミュニティが拡大
グアナファト州ではすでに、州内の日系コミュニティを活性化し、日本人とメキシコ人の子孫や、日本文化愛好家を結びつける初の協会設立に向けた作業が進められている。その目的は、日本文化と日墨の融合を広めることである。 在メキシコ日本国大使である福嶌教輝大使のイニシアチブにより、日系人コミュニティの活性化や友好関係の構築が進められています。いわゆる「日系人」とは、日本以外の国に移住し、当該国の国籍、または永住権を取得した日本人、およびその子孫を意味します。 福嶌大使の提案はこの概念を拡大し、日本人の子孫ではないものの日本文化と密接なつながりをもつ人々や社会集団を、日系コミュニティに含めるというものです。その中には、メキシコと日本の関係強化に貢献する企業や団体も含まれます。 グアナファト州では、この取り組みを推進するための活動がすでに始まっています。 レオン市に30年以上住んでいる日本人の血を引くメキシコ人、エンリケ·カトウ·ミランダさんがこの活動を担当しています。 「グアナファトの日系コミュニティを活性化するために、1年前から集中的に活動しています」と、理学修士で環境問題の専門家であるエンリケさんはインタビューに応じてくれました。 日系BJXグアナファトとして知られる州の日系コミュニティは、自身もメキシコ生まれの日系人である福嶌大使の提案により新たな日系人の加入を目指す、グアナファト州で初めての団体となります。 同協会を合法的に設立するための手続はすでに始まっており、まもなくグアナファト州に初の日系人協会が誕生することになります。 エンリケ·カトウ·ミランダさんについて エンリケ·カトウ·ミランダさんは日本人の血を引くグアナファト州出身者です。祖父の加藤岸三郎さんは1905年、20世紀初頭の移民の一員としてメキシコにやって来ました。加藤さんはメキシコシティでグアダルーペ·ラミレスさんというメキシコ人女性と結婚し、当時日本からお祝いの手紙を受け取りました。 エンリケさんは日本人の子孫の一人であり、現在ではグアナファト州の日系人コミュニティ活性化の中心的な推進者です。 例年開催される日系人の集いをグアナファト州で開くことを提案 メキシコに住む日系人は、2年に一度メキシコと日本の文化交流を促進するために会合を開いています。エンリケ·カトウさんは2026年に開催される日系人全国大会(CONANI)をグアナファトで開催したいと考えています。「この重要な会議のホストとしてグアナファトを受け入れてくれることを願っています」 CONANIは、全国から250人以上の日系人が集う二つの文化が融合された会合です。同時に日本エキスポも開催され、1万2千人以上の来場者が見込まれています。
ホワイトデー:日本では愛と感謝の日
2月14日のバレンタインデーからちょうど1カ月後、日本では男性から女性に感謝の気持ちを伝えるホワイトデーを祝う。 日本では伝統的に、2月14日に女性が男性にチョコレートを贈る習慣があります。そして、1978年以降、日本のお菓子メーカーがその1か月後に男性から感謝を伝える日を提案しました。
ホセ・アルフレド・ヒメネスは今でも王様
グアナファト出身のこの作曲家兼歌手の音楽は、世界中でメキシコを際立たせている。 没後50年、ホセ・アルフレド・ヒメネスはいまだ「王様」であり、世界におけるメキシコ音楽の象徴でもあります。 先日、没後50周年記念式典が開催され、ディエゴ・シヌエ・ロドリゲス州知事は、グアナファト州出身のホセ・アルフレドの作品を同州の無形文化遺産に認定しました。 ドローレス・イダルゴで開催された、2023年ホセ・アルフレド・ヒメネス国際フェスティバルで、知事はこう宣言しました:「今日、私たちはこの町の偉大な音楽家への賞賛を記録に残し、彼の人生を讃え、彼の音楽に永続性を与えるためにここにやってきました。今日、私たちはメキシコが生まれ、偉大なるホセ・アルフレド・ヒメネスが生まれたこの恵まれた土地に集い、彼の素晴らしい音楽作品をグアナファト州の無形文化遺産とする政令第163号に署名します」 ホセ・アルフレド・ヒメネスの生涯 1926年1月19日、ドローレス・イダルゴ生まれ。ホセ・アルフレド・ヒメネス・サンドバルは、グアナファトのみならずメキシコを代表する音楽家として際立っていました。 サン・ニコラス大学卒の創薬化学者で、当時ドローレス・イダルゴで唯一の薬局を経営していた実業家アグスティン・ヒメネスとカルメン・サンドバルの息子として生まれました。 子供の頃からホセ・アルフレドは音楽と歌が大好きで、作曲の才能もあったと言われています。当時は農作業をする人々や動物に捧げる歌をつくり、フェスティバルで演奏していました。 しかし、彼がようやく10歳になった1936年に父親が亡くなり、ドローレス・イダルゴからメキシコシティに転居せざるを得なくなったことで人生が一転します。母親は薬局を売り払って食料品店を開いたもののうまくいかず、ホセ・アルフレドと兄のナチョは働くために学校を辞めなければなりませんでした。 その後、家族はグアナファト州に戻り、サラマンカに定住しましたが、ホセ・アルフレドはメキシコシティにとどまり、レストラン「ラ・シレーナ」でウェイターとして働きながら音楽活動を続けました。 彼のもう一つの情熱はスポーツで、レオン出身の有名なサッカー選手、アントニオ・ラ・トータ・カルバハルと同じチームに所属していました。 ラジオ局やレコード会社の門をたたいて数年が経ったころ、ホセ・アルフレドはアンドレス・ウエスカと出会い、RCAビクターのアーティスティック・ディレクターであったマリアノ・リベラ・コンデに紹介されました。 そしてロス・レベルデスというグループのボーカルとして歌い始め、今日でも良く知られている次のような曲を作曲しました:El rey(王様)、 Si nos dejan(二人をそっとしておいて)、Un mundo raro(不思議な世界)、 Tú y las nubes(あなたと雲)、 Amanecí en tus brazos,(朝の口づけ)、Cuatro caminos(4本の道)、Te solté la rienda(手綱を緩めた)、El jinete(悲しき騎手)、 La media vuelta(背を向けて)、 Ojalá que te vaya bonito(あなたに幸あれ)、…